私共が平素、好んで良く弾いております地歌箏曲の作曲家を中心に何となく聞きかじって、ただ思いを馳せるだけの方々も含めて 近世邦楽期(織豊期〜江戸期)の作曲家をわかる範囲で、なるべく年代順になるように表にしてみました。
何でもすぐに物忘れしてしまう私の備忘録でございます。
これからも、本で読んだりお話を伺ったりなどする折りごとに、少しづつ書き足してまいりたいと思います。
なにぶん不勉強な浅学の徒…
間違いがございましたらどうぞご指南くださいませ。
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1547?-1636(久留米)
りんぜつ、布貴、四季、花の宴
琉球組、鳥組、腰組、不詳組、飛騨組、忍組、浮世組
????-1680
(大阪 → 京都)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
(八橋の十三組)
-表組-
菜蕗、梅が枝、心尽し、天下太平、薄雪、雪の晨
-裏組-
雲上、薄衣曲、桐壺曲
-中組-
須磨
-奥組-
四季の曲、扇の曲、雲井の曲
六段の調、八段の調、みだれ
六段すががき、十二段すががき
雲井弄斎
(箏組歌)
明石、末の松、空蝉
羽衣の曲、若葉?
八橋検校の弟子で生田検校の師。
正保2年(1645)検校登官。
元禄2年(1689)第34代職検校となった。
元禄3年(1690)逝去。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
砧、三段獅子、桜尽し、恋衣、躑躅、冬草、木遣
柳川検校門下。
狭山検校とも記す。
1666年に検校登官。
三味線組歌本手組の掛け撥が当時の人の好みに合わないと考え、破手組の片撥から工夫した長歌を創始。
1626 猿若座(のちの中村座)の公許→庶民の間に歌舞伎や人形浄瑠璃などの芝居見物が広まる
1629 遊女歌舞伎禁止
1633 奉書船以外の海外渡航禁止
1637-38 島原の乱
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
(長歌)
狭衣、四季
春日野
(箏器楽曲)
五段の調
(三絃二重奏曲)
四段砧(京砧)
(箏組歌)
鑑の曲、思川、四季源氏
(三絃手付)
十二段すががき、小笹
江戸前期・中期の箏曲家。
八橋検校門下の北島検校に箏曲を学ぶ。
元禄8年(1695)生田流を名乗り、生田流箏曲の始祖となる。
角ツメを創始。
半雲井調子や中空調子などの新しい調弦法を案出。
元禄9年(1696)に検校となり、生田検校幾一を名乗る。
芸術的に高度に洗練された地歌三絃と箏とを合奏することで有名になり、大きな功績を残した。それ以前にも、三味線・箏・一節切(尺八)による合奏が行われていたという資料がある。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
かぞへ歌、春草、衣尽し、子の日、舞扇、若松
三味線組歌野川流の祖。
元禄9年(1696)に検校登官。
平曲奏者として活躍したという記録がある。
柳川検校から朝妻検校へ伝えられた三味線組歌に改編を加えて曲目を32曲に定め、大阪を中心に野川流として伝承。後に<菊筋><富筋><中筋><楯筋>と細分される。山陽地方や九州地方にも伝わった。
菊筋では、野川流の全32曲が現在まで伝えられている。
箏組歌と異なり、ひと歌の拍数が一定ではない。
破手組では、ハジキや複雑なユリなどを使い、テンポも自在に緩急をつける。
尾形光琳(1658-1716)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
狐火、古道成寺、こんかい、関寺小町、放下僧、松風、六段恋慕
元禄〜正徳(1688-1716)に活躍した地歌三絃の名手および作曲家。非盲人の劇場音楽家。
京都祇園の茶屋「井筒屋」の主人で、歌舞伎の三味線方として活躍しながら、地歌の芝居歌ものを数多く作った。
忠臣蔵の大石蔵之助との交流でも知られる。
<バロック音楽>
アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
新雲井弄斎(奥組)
橋姫(復曲)
生田検校の高弟。
大阪の米山検校とは別に生田流を伝承。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
元禄期に、江戸浄瑠璃のひとつである半太夫節をつくる。
説経・歌祭文の上手。
門下から、河東節の祖である江戸太夫河東(十寸見河東)が出た。
半太夫節…浄瑠璃の中でも格調高く、情味豊かな曲趣であるところが検校達に好まれ、地歌の中に引き継がれた。題材は殆ど蘇我兄弟の物語。調子の低いどっしりとした感じを武士が好んだ。言葉は美文調であったが、曲そのものが地味でお嬢様方に教えるには不向きなため、次第にごく一部の人のものとなっていった。
「風呂入り蘇我」…高杉晋作が好んで歌っていた曲。特に『頭巾はときの隠れ笠、羽織はときの隠れ蓑〜』という部分を好んだといわれる。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
元禄・宝永期(1688‐1711)に活躍した歌舞伎の三味線方。
徳川吉宗(1684-1751)
十寸見河東(通称/天満屋藤十郎 1684-1725)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
享保(1716-36)のころ、三味線の名手として京都で活躍。
柳川流の早崎検校の門人で、柳川流中興の祖。
野川検校と並び称された。
「さらし」は、北沢勾当(1600年代後半)の原曲を深草検校が発展させた曲。京都宇治川で布をさらす作業を表現したもの。有名な合の手(間奏)が長唄「越後獅子」などにも借用されている。
1684 大阪道頓堀で義太夫「竹本座」創設
1685 八橋検校没
J.S.バッハ(1685-1750)
初代竹田出雲(?-1747)
<小袖の発達>
貞享(1684-88)の頃、従来からあった金銀摺箔・絞り・刺繍に加えて、糊置防染の友禅染を発明
<元禄時代>
1688 元号が元禄に
1689 芭蕉「奥の細道」へ旅立つ
二代目竹田出雲(1691-1756)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
生田検校・倉橋検校門下。
八橋検校以降の箏組歌の作曲者として有名。
富山藩のお抱えとなって富山藩江戸屋敷に住み「江戸生田流」を創始。
『東遊記』は三橋検校の伝記。
1702 赤穂浪士討ち入り
1703 近松「曽根崎心中」初演大当り
1704 江戸長唄の名が初めて見られる
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
享保年間に大阪で活躍。
(1732登官)
1711 「冥途の飛脚」初演
1714 江島生島事件
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
三味線を柳川流の田中検校に、箏を倉橋検校に学ぶ。
箏組歌を整理して「撫箏雅譜集」を刊行。
すぐれた門弟が多く、のちにその各系統から、名古屋系・大阪系(新生田流)・山田流などが生まれた。
1716 八代将軍に吉宗。享保の改革始まる。
与謝蕪村(1716-1784)
1717 十寸見河東(ますみかとう)半太夫節から分かれて河東節を創始
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
長歌や繁太夫物のほか、新傾向の端唄物を数多く作曲。
(1756登官)
1722 小石川養生所設立
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
深草検校門下。
「琴線和歌の糸」「新曲糸の節」を編集。
(1756登官)
*後になって、津山撥を考案した津山検校とは別の人。系統的なつながりもない。
エカテリーナ2世(1729-1796)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
地歌三味線演奏家。
端歌を数多く作曲して名を挙げる。
浄瑠璃の繁太夫節の曲風をまねた地唄独自の新作を作曲→繁太夫物と呼ばれる。
歌い物である地唄が、語り物風の表現を取り入れて芸風を拡大した点、また、すでに途絶えてしまった繁太夫節・半太夫節の面影を今に偲ばせる点で重要。
江戸吉原に出て上方物を江戸に紹介→宝暦12年(1762年)「泉曲集」を編集。
歌が悲しすぎるという理由で、吉原では鶴山節を禁じたという逸話がある。
宮古路豊後掾「所作事」完成(1730頃)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
明和〜安永(1764-1781)に活躍した三味線の名手。
謡曲を題材とする作品をいくつも作った。
謡曲の詞章の一部分をそのまま歌詞に使って地唄に作曲したもので、謡曲物と呼ばれる。
本居宣長(1730-1801)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
「歌恋慕」…箏組歌付物。
元禄以前の歌謡を組み合わせて歌詞とする。題名が尺八の曲名風なので、手事は巣籠地がそえられている。藤谷検校の「常世の曲」と打ち合せる。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
石橋…地唄の芝居歌で、歌舞伎事始めに、「三味線は杵屋喜三郎で、享保19年滝川菊之丞がこれを増補して芳沢金七が節付けした」とある。大阪と京と二種類あって、ふしは大阪が勝り、手は京の方が良く出来ているという説あり。
新道成寺…2代目杵屋長五郎と共に、古道成寺に手付。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
生没年不詳。
江戸中期ごろ京都で活躍。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
1751年登官。菊永検校から宝暦年間(1751-1764)に三味線組歌の伝授を受ける。
宝暦13年(1763)に検校となる。
繁太夫節を弾いて流行らせたり伝えたりした。
杉田玄白(1733-1788)
円山応挙(1733-1795)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
墨絵の月
安永から天明(1772-1789)頃に大阪で活躍。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、椿づくし
落とし文
江戸土産靭猿
天明年間に活躍。
寛政9年(1797)11月江戸中村座上演の錦絵に、松嶋検校の絵がある。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
オランダ萬歳
こんかい、鎌倉八景
(箏手付)
融、虫の音、八千代獅子、蛙、古道成寺
文化年間に大阪にいた市浦検校は、当時輸入されたオルゴールの音楽にヒントを得て、「オルゴール調子」を発明。
三味線の旋律にべた付けではない箏の旋律を作って合奏を始めた。
<人形浄瑠璃最盛期>
初代豊竹駒太夫(?-1777)
1746 「菅原伝授手習鑑」初演
1747 「義経千本桜」初演
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
末の契り、新松尽くし
若菜、新浮舟
玉の台、里の暁
鳥追、嵯峨の春
六歌仙
(松浦の四つ物)
宇治巡り、四季の眺め
深夜の月、四つの民
文化文政時代、三味線曲の代表的作曲家。
1798年(寛政10)検校に登官。
大阪の峰崎勾当や三橋勾当が完成させた「手事物」の様式を京都風に洗練させ、「京流手事物(京物)」のスタイルを確立した。
大阪ものの雰囲気や手事の構成を残しつつ、京風な優雅さ、感覚的な洗練を加えている。
文政5年逝去。
「若菜」の節回しに声明の影響があるといわれる。
ゲーテ(1749-1832)
1757 「祇園祭礼信仰記」大阪豊竹座で初演
<舞台装置の高度化>金閣寺の段で三層のせり上げせり下げ
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
ゆき、小簾の戸
袖の露、袖香炉
別世界、花の旅
残月、越後獅子
吾妻獅子
(箏手付)
根曳の松
「手事物」の確立者。
日本音楽史上、最高の作曲家といわれている。
組歌に代表されるような従来の規範性を持った曲調を脱却し、端唄物(当世風)の名曲を数多く残した。
また、大阪手事物の大成者のひとりでもある。
初世植村文楽軒(1751-1810)
喜多川歌麿(1753-1806)
四代目鶴屋南北(1755-1829)
マリーアントワネット(1755-1793)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
(箏組歌)初音の曲
江戸中・後期の箏曲家。
尾張藩宝生流能楽師の子。
河東節・一中節などといった江戸ッ子好みの浄瑠璃を取り入れた語物的な箏曲の分野を確立。
楽器を改良して、より音量の大きな山田箏を完成させた。
山田流箏曲の始祖。
葛飾北斎(1760-1849)
酒井抱一(1761-1829)
1762 女帝エカテリーナ2世即位
写楽(1763?-1820?)
小林一茶(1763-1828)
十辺舎一九(1765-1831)
1765 鈴木春信「錦絵」を創始
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
(長歌/尽し物)
瀧づくし
亀島検校門下。
富筋の祖・富沢勾当は孫弟子。
1778年登官。
1768 荻江節創始
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
箏の名手。
三味線を本手、箏を替手として複旋律で奏でる「京流手事物」の合奏法を大成した。。これによって合奏の芸術レベルが飛躍的に高まる。
松浦検校や菊岡検校の地歌三絃に、繊細で技巧的な箏の手付を数多く手がけた。
1815年登官。
多大な音楽的功績を残したが、金銭には疎く清貧な生涯を送ったことが知られ、京都の両替商万屋がパトロンとして生活を支えた。
門人には、光崎検校・松崎検校・葛原勾当・松坂春栄など。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
春の曙
嘉永年間(1848-1854)に活躍。
菊池検校門人。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
文化・文政時代に京都で活躍。
技工的な三絃の名曲を作曲。
晩年は孤独だったと伝えられる。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
名取川
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
すり鉢
(作詞/峰崎勾当)
袖の露、別世界
花の旅
京都の旦那衆。
頼山陽(1781-1832)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
松竹梅根曳の松
文化・文政時代に大阪で活躍。
峰崎勾当と並ぶ三絃手事ものの代表者。
一下りの調弦を考案。
1789-1799 フランス革命
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
磯千鳥、楫枕
笹の露、里の春
園の秋、竹生島
茶音頭、ながらの春
御山獅子、夕顔(箏手付は八重崎検校)
ままの川(箏手付は松野検校)
けしの花(箏手付は2代目松崎検校)
老松(箏手付も菊岡検校)
光崎検校と同門。
15歳で検校に登官した。
京流手事物の代表的作曲家。
そのほとんどに、八重崎検校が箏の手付をしており、菊岡・八重崎の名コンビとして名高い。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
(箏手付/松浦検校)
嵯峨の春、里の暁
深夜の月、末の契り
生没年不詳。
天保・弘化年間(1830-1848)に京都で活躍。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
京名所
菊永検校の門人。
寛政(1789-1801)のころ「京名所」を作曲。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
袖の雨、歌恋慕?
文政から幕末の人。
安藤広重(1797-1858)
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
五段砧、秋風の曲
桜川、夜々の星
七小町、千代の鶯
三津山、夕べの雲
蕾の梅
幕末期、本居宣長らの国学の影響を受けて復古主義の時代を迎え、純粋に箏だけの曲を作曲して、箏曲史上に一大転機をもたらした。
三味線に従属しない箏曲を復興して吉沢検校に影響を与えた。
菊岡検校と同門。
箏の師は八重崎検校。
1821年(文政4年)検校登官。
五段砧…箏の高音と低音での二部合奏として革新的な作品。
秋風の曲…白楽天の長恨歌から歌をとる。精魂を込めて作曲するため、竹生島弁財天に参籠。弁財天のご加護によってこの調子が生まれたという。
夕べの雲…旧思想に反感をもった検校が、三絃を絶対によせない箏の本曲に三絃の手をつけたもの。さすがに京都では弾かれず、熊本に伝わり、明治30年代に川瀬里子によって持ち出されて弾かれるようになった。
1802-1814 十辺舎一九「東海道中膝栗毛」
1805 人形浄瑠璃文楽座の祖である初世植村文楽軒(1751-1810)資材をなげうって大阪に立人形興行を始める
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萬歳 、靭猿
江戸後期から幕末にかけて久留米で活躍。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
幕末期に名古屋で活躍。
12歳で藤尾勾当の「屋島」に箏の手付をしたと伝えられるほど作曲能力に長けていた。当時の生田流箏曲の風潮に反骨精神を持って「箏組歌復古」を唱えた人。
三味線を中心にして箏はそれを支える立場(地歌が「主」で箏が「従」という関係)であり、また、「京風手事物」にみられる技工的で華美な手付であった当時の生田流箏曲を、箏本来の簡素で素朴な響きを活かした「箏組歌」へ回帰する新しい古典精神を確立する気品ある曲を目指した。
雅楽の盤渉調からヒントを得て、「都節音階」と「律音階」が混合した雅俗折衷の独特な古今調子Clickを考案。明治新曲に大きな影響を与えた。
吉沢検校の古今物は、組歌を基本にしているので、手事はなかったが、明治中期に松坂春栄が華やかな手事や替手をつくり、今はそれが定着している。右にあげた最初の五曲を『古今組』と呼んでいる。
晩年は京都に移る。
明治5年(1872)逝去。
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
さむしろ、松の寿
山陰出身。
大阪で活躍。
地歌大阪ものを作曲した。
1811 文楽座創始
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
花形見、狐の嫁入り
『葛原勾当日記』
明治16年(1882)逝去。
1813 女性の身だしなみにかかわる総合的な本「都風俗化粧伝」が出版され、ロングセラーになる。
1814 清元節創始
1814 滝沢馬琴「南総里見八犬伝」
1614-1685
(大阪 → 江戸 → 京都)
萩の露、打盤・横槌
四季の寿、磯の春
新玉鬘、影法師
川千鳥
文政元年の生まれ。幕末から明治前期に活躍。
三絃の名手と言われた鶴岡検校の門人。
京風手事物最後の作曲家。
当道職屋敷が廃止された明治4年以降は幾山榮福と名乗る。
箏の手も自作が多い。
地歌としての最後の曲である『萩の露』を作曲。
謹厳で独身を通し、明治23年(1890)77歳で逝去。
河竹黙阿弥(1816-1893)
1821 伊能忠敬「大日本沿海興地全図」完成
勝海舟(1823-1899)