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美緒野会では、港区高輪をはじめとし、国内25ヶ所(門前仲町、穴守稲荷、護国寺、恵比寿、芹が谷、西宮、京都、筑紫野市、大分)海外2ヶ所(プラハ、サンタバーバラ)で、お箏(お琴)・三味線のお稽古をお楽しみいただけます。有志のボランティアグループでは、ご高齢者やお子様の施設・各種イベントにて演奏を行っております。
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■地唄_袖香炉(地唄二上り端唄物)

作曲 峰崎勾当 / 作詞 餝屋次郎兵衛(かざりや じろべえ)
曲:袖香炉
演奏時間:08’02″(2012年3月録音)
演奏者 小野真由美 (三絃)
    本多真美 (箏)

クリックすると演奏が始まります。

曲目解説
作曲者である峰崎勾当の師 豊賀検校が1875年(天明5年)にお亡くなりになられたのを悼んでつくられた追善の曲でございます。

お袖の中で燻らせる小さく丸い携帯用の香炉のことを袖香炉とか袖炉(しゅうろ)とか申します。
上のお写真の丸い香炉がそれでございます。表に金や銀粉で兎と波が描かれていてとても綺麗ですね。高砂香料工業株式会社様のご厚意で、素敵なお写真を掲載させていただいております。本当にありがとうございます。
中に球形の薫炉が入っていて、どのように転がっても、火炉が絶えず水平に保たれるようなしくみになっているそうでございます。
調べてみましたら、そもそもこのしくみが考案されたのは秦の始皇帝のころですとか…もとは吊香炉と呼ばれ、始皇帝が馬車の中に吊るしてお香を焚いて楽しまれたとのこと。その香りは馬車が通り過ぎたはるか後にも漂ったそうでございます。
これが日本にまいりまして、徳川様の御代に小型の漆器になったものが「袖香炉」。お着物のお袖に入れて踊ったり舞ったりしながら、上品なお香の香りを辺りに漂わせるという見事な芸術品へと発展を遂げたそうでございます。

ところで・・・薫りと言えば源氏物語の薫君が思い出されます。

寝殿の南の廂に 常のごと南向きに 中少将着きわたり
北向きにむかひて 垣下の親王たち上達部の御座あり。
御土器など始まりて ものおもしろくなりゆくに
「求子」舞ひて かよる袖どものうち返す羽風に
御前近き梅のいといたくほころびこぼれたる匂ひの
さとうち散りわたれるに
例の中将の御薫りのいとどしくもてはやされて
いひ知らずなまめかし。
はつかにのぞく女房なども
「闇はあやなく心もとなきほどなれど
香にこそげに似たるものなかりけれ」とめであへり。

はつかにのぞく女房などが薫君を愛でて言い交しておりましたのが、

春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそみえね香やは隠るる

『我が田に水を引くの論ではありますが、三味線の声曲のいろいろある中にありまして、品の良さということを身上にしておりますのは、地歌と申しましても宜しかろうかと存じます。庶民の身辺の、世話にくだけたことを写しておりましても、それが地歌の手となり節となりますと、汗や埃の落とされた上品な韻きとなって耳に伝わって参ります。

凡河内躬恒(古今集)の有名な和歌でございます。
この曲もこの和歌で唄い出しますが、梅の香りにむせぶような心地がして、しみじみと夢のよう・・・。
歌詞の中には、『散る 煙り 惜しめど 甲斐なく 見捨てて』など悲しみを表す言葉がたくさん並られていて、追悼の気持ちが強く唄われております。
歌詞

春の夜の闇はあやなし
それかとよ香やは隠るる梅の花
散れど薫りはなほ残る
袂に伽羅の煙り草
きつく惜しめどその甲斐も
亡き魂衣ほんにまあ
柳は緑紅の花を見捨てて帰る雁

いにしえより春の夜の闇はあやなしの歌にもよまれる梅の花の香りのように、例えお姿が見えなくなってもとよ香(豊賀検校)の思い出やご遺業は私達の心に懐かしい薫りとなっていつまでも残っています。
袂に入れた袖香炉に伽羅の香を焚きしめて偲んでおりますと、煙りのように儚くなられた方がいっそう思い出されて涙がこぼれてしまいます。どんなにお慕いしても甲斐もなく、尊いいのちの儚さが本当に残念でたまりません。
諸行無常が世の常とは申しますものの、柳は緑を深くし花は紅に色づく春がもうそこまできておりましたのに、まるで、春を待たずに北へ帰る雁のように、私達を見捨てて旅立たれてしまいましたね。
(付記)
2011年は日本中が悲しい思いに包まれた年でございました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りしながら、また被災された方々の一日も早いご復興をお祈りしながら、何度も何度も心を込めて皆で唄わせていただいた曲でございます。
いつまでも来ない遅い遅い春の日の午後、緑の柳や濃き紅の花々に思いを寄せて、今日はできるだけ小さなお声で唄わせていただきました。